富山県生活協同組合

被爆の証言②(2018ピースアクション)

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被爆の証言

川野 登美子さん

 原爆の投下から9年後、広島では「ピカ(原爆のこと)の時、どこにおったの?」があいさつ代わりになっていました。街の再建も進んでいましたが、工事をするたびにあちこちからたくさんの人骨が出てきました。

 川野さんと佐々木禎子さんは、小学校2年生から6年生までを同じクラスで過ごしました。川野さんと禎子さんの家は商店どうしで家庭環境がよく似ていたため、二人は大の仲良しで、川野さんは禎子さんのことを「さだちゃん」と呼んでいたそうです。

 禎子さんは男の子にも負けないほど足が速く元気な女の子でしたが、6年生の1月になってから体調を崩し、学校を休みました。
 その後、禎子さんは入院することになり、川野さんたち同級生は、先生から「(禎子さんが入院したのは)原爆のせいらしい」と聞かされます。
 禎子さんが2歳の時に爆心地から1.7kmのところにあった自宅で被爆していたように、クラスの三分の一以上が被爆者。その時、川野さんは「もし自分も病気になったら…」と恐ろしくなったそうです。

 禎子さんが入院してから、同級生たちはいくつかのグループに分かれ、順番に禎子さんのお見舞いへ通うようになりました。
 卒業式の前々日にはクラスで「団結の会」を作り、①月1回以上、小学校か先生の家に集まること、②お互いの結婚をお祝いすること、③禎子さんのお見舞いを続けることを約束しました。
 しかし、中学校へ進学してからは、禎子さんのお見舞いに行く回数はだんだんと減っていきました。

 8月、川野さんたちが禎子さんのお見舞いに行くと、禎子さんの身体には紫斑が現れていました。その頃には、禎子さんは「鶴を1,000羽折ると願いが叶う」と信じて折り鶴を折っていました。
 お見舞いへ行くたび、川野さんは禎子さんから中学校のことを聞かれましたが、川野さんは禎子さんが中学に行けないことをなんとなく分かっていたので、「中学は面白くない」と答え続けていました。

 秋になり、中学校の行事が忙しくなったので、しばらく禎子さんのお見舞いに行っていませんでした。
そんな頃、禎子さんが亡くなったという知らせが届きます。
 「団結の会」のみんなで禎子さんに会いに行ったとき、悲しくなるより、ちゃんとお見舞いに行っていなかった後悔と、幼い友人が亡くならなくてはいけなかったことへの怒りで心がいっぱいになりました。

 禎子さんが亡くなったあと、「団結の会」で話し合い、毎月、禎子さんのためにみんなで集まるため広島市内にお墓を作ろうという話になりました。
 そして、6年生の時の担任の先生から、のちに「広島折り鶴の会」を立ち上げる河本一郎さんを紹介されます。河本さんから、禎子さんのほかにも原爆の影響で亡くなった子供がたくさんいるという話を聞いた川野さんたちは、原爆の犠牲になった子供たちすべての霊を慰める慰霊碑を建てることにしました。

 慰霊碑を建てるための募金活動は、川野さんたちのビラ配りに始まって全国の小・中学生へ広がり、集まった寄付金は540万円(今の約5,400万円)にのぼりました。

 昭和33年に建立された「原爆の子の像」には、禎子さんと折り鶴のエピソードにならい、子供たちが犠牲になることのない「平和な世界」を願う折り鶴が奉げられるようになっています。

 2018年8月6日(月)
ピースアクションinヒロシマ
分科会「被爆の証言 サダコと折り鶴の話」

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