富山県生活協同組合

被爆の証言(2018ピースアクション)

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被爆の証言

矢野美耶古さん

 矢野さんは、「最近は、生活様式が変わりすぎているからか、被爆の証言をしても若い人には理解してもらえないことがあるが、今の日本の雰囲気がかつて戦争にのめりこんでいった時代によく似ている。今ならまだ、戦争を食い止めることができると思って自分の体験を語っています」とおっしゃってからお話を始められました。

 矢野さんが国民学校の高学年になる頃には、学校の校舎は兵舎に変わっていきました。当時は兵隊の移送に船を使っていたので、港が近い宇品にはたくさんの兵士を駐屯させる施設が必要だったためです。「兵隊さんを見ない日はない生活だった」とおっしゃっていました。

 夏休みが明けて学校へ行ってみると、校舎の一部が兵隊の衣類を縫う工場になっていました。高等女学校の3年生たちはそこで仕事をするようになり、矢野さんたち2年生以下の生徒は「工場へ近寄ってはいけない、中を見てはいけない、中の様子を知ってしまっても誰にも言ってはいけない」と言われていたそうです。
 当時は軍の機密を守る法律があり、一般市民の行動や言論は大人も子供も関係なく厳しく制限されていました。

 子供たちは学校へ通っていましたが授業はなく建物疎開に従事していました。
 8月5日、矢野さんは先生から「作業の人手が足りないので、明日は多少体調が悪くても作業へ出てくるように伝えなさい」と言われ、作業を休んでいた同級生に「明日は作業へ出てくるように」と伝えに行きました。

 ところが、その夜に繰り返し空襲警報が鳴って防空壕へ避難している中で、矢野さんは体調を崩し、8月6日、退学処分になることも覚悟して学校を休みました。

※…火災が広がらないよう、あらかじめ建物を壊して防火帯を作る作業

  原爆が落ちた時、矢野さんは爆心地から約4km離れた自宅で休んでいました。爆風は宇品にも届き、矢野さんは畳ごと吹き飛ばされたといいます。

 爆弾が落ちたら火を消すように教わっていたので慌てて外へ出ましたが、爆弾が落ちた形跡はありませんでした。しばらくすると身体の片側だけを焼かれたような、大やけどを負った人たちが広島市内から逃げてきました。

 爆風で多くの建物が壊れた中、矢野さんの自宅の神社は残っていたため、けが人を収容する救護所になりました。けがをした人たちは、近づくと足にすがりついて「水をください」と懇願してきましたが、「水を飲ませると死ぬ」と言われていたので何もしてあげられなかったそうです。

 翌日になると、けが人を背負って歩いてきたような無傷の人たちが次々に亡くなっていったことに驚きました。

  矢野さんは、その遺体を焼く火の番をしていました。当時は放射能のことなど知りません。原爆から放たれた放射線を浴び、放射線を放つようになった木材と一緒に遺体を焼き、被ばくすることになりました。

 それよりも大きな被ばくの原因になったのは食べ物や飲み水です。放射線を浴びた土で作った作物や、くんできた水を飲んだことが内部被ばくにつながりました。

  9月1日になって学校へ行くと、2年生は矢野さんのほかに2人しか登校していませんでした。8月6日、現在の平和記念資料館前の噴水のあたりで建物疎開の作業を行っていた同級生と先生方500名が全滅したことを、その時初めて知ったのです。

  当時は「非国民」や「スパイ」という言葉が子供たちの間にまで根付いており、「死ぬことが名誉」と教えられていました。生き残った人に向けられる目は厳しく、10月に行われた慰霊祭では、同級生の遺族から「まじめに学校へ行った者が死んで、非国民が生き残っている」と言われ、矢野さんは自ら命を絶とうとも思ったそうです。

 翌年になると、体がだるく、貧血が続くようになりました。当時、原爆の影響があるといわれていたのは爆心地から2kmまで。ところが、その後矢野さんの体には「原爆症の末期症状」と言われていた紫斑が出るようになりました。

  矢野さんのお子さんもひどい貧血に悩まされました。

 病気がちなお子さんと二人で家に引きこもるようになった矢野さんでしたが、それを見かねたお友達に連れ出されて行った先で、偶然にも、亡くなった同級生のお姉さんの手記を読みました。

 手記を読んだ矢野さんは、その時初めて「原爆が落ちたのが8月5日だったら、ここに書かれていたのは自分のことだった」と思ったそうです。そして、「自分はこの19年何をしてきただろうか?」と考えました。

  また、ベトナム戦争の時、矢野さんは戦地へ向かう米軍の飛行機が飛び立っていくのを見て、「日本には平和を守る憲法ができたのに、どうしてこの国から戦争へ行く飛行機が飛んでいくのだろう?誰が、何のために戦争をしているのだろう?」と疑問に思ったそうです。

  その後、手記を書いた同級生のお姉さんとお会いになった矢野さんは、その方が行っている被爆体験の聞き書き活動に同行するようになり、やがて一人で被爆の証言を聞いて回るようになりました。

 聞き書きを続け、手記を編集することは、戦争や被爆の体験の何を伝えるかについて考え、勉強する機会になったそうです。

  最後に、矢野さんは「15年続いた戦争の中で生まれ、戦争が終わる前に亡くなった友人たちは平和な時代を見ることができなかった。それが本当に気の毒だった」「若い人たちにお願いしたいのは、これから起きるかもしれない戦争を食い止めること」とおっしゃって、お話を終えられました。

 2018年8月5日(日)
ピースアクションinヒロシマ
分科会「アニメと被爆の証言」

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