富山県生活協同組合

震災から5年目を迎える福島を訪問しました(2016年1月)

 東日本大震災から5年。津波・地震とともに起こった原発事故は、今もなお福島の復興に大きな影響を及ぼしています。

 2016年1月28日(木)~29日(金)、富山県生協の東日本大震災復興支援実行委員会の橋場委員と事務局の2名が、コープふくしまさんのご協力のもと、震災後5年目を迎える福島を訪ねました。

 

1日目 飯舘村  南相馬市小高区 双葉町~大熊町 富岡町 県道36号線 川内村

2日目 福島市北幹線第一仮設住宅

 

1日目

コープふくしまの加藤専務理事補佐のご案内で、福島市~飯舘村~南相馬市原町区・小高区~双葉郡浪江町・双葉町・大熊町・富岡町・川内村の道のりをたどりました。

 

飯舘村

 飯舘村は2011年4月に計画的避難区域となり、現在も避難指示解除準備区域・居住制限区域・帰還困難区域に指定されています。しかし立ち入りは制限されていないので、村内には車が行き交い、郵便局やコンビニも営業しています。

 村内を通る県道12号線を南相馬市に向けて走っていると、右手には常に除染廃棄物を詰めた黒いフレコンバッグが見えていました。4段、5段と積み上げられた場所もあれば、これから積み上げられていくと思われる場所もあります。

車の窓からはいつもフレコンバッグが見えました

車の窓からはいつもフレコンバッグが見えました

山積みのフレコンバッグ

山積みのフレコンバッグ

新たに並べられるフレコンバッグ

まだ増えるようです

まだ増えるようです

 村内には除染廃棄物を減容するための仮焼却施設が建設されていますが、一日に処理できる廃棄物の量には限りがあり、最終処分がどうなるのかも決まっていません。

 そんな状況ではありますが、今年6月22日、飯舘村役場の業務の大部分が飯野出張所から村内の庁舎へ戻ります。帰村に向けた準備は少しずつ進んでいます。

 

 

南相馬市・小高区

 南相馬市は2006年に3つの市町が合併してできた市です。原発事故後、市内の鹿島区、原町区、小高区は、福島第一原子力発電所からの距離に応じてそれぞれ違う状況に置かれました。中でも20km圏内に含まれる小高区は、現在も避難指示解除準備区域となっています。

 私たちは国道6号線を南下しながら、小高川近くの津波被害があった場所へ行きました。

海まで更地が続きます

海まで更地が続きます

津波に襲われた住宅地は海水をかぶって沼のようになっていました

津波に襲われた住宅地は海水をかぶって沼のようになっていました

  海からの津波と小高川をさかのぼった津波に襲われたその地域では、瓦礫の撤去が進み、6号線から海まで遮るものが何もなくなっていました。

 

住宅があったことを思わせるコンクリートや庭木だけが残っています。

住宅があったことを思わせるコンクリートや庭木だけがあります。

残る住宅2

水が溜まった更地の奥にはまだ住宅が残っています。

  住宅があったことを気づかせるコンクリートの土台や庭木に囲まれた敷地が残っているばかりです。

 更地にはかつての住宅の持ち主のお名前と識別用の番号が書かれた札が立てられていますが、沼のようになったこの場所に住宅が並んでいたと想像するのは難しいほどでした。

 

海に近いところの住宅。ひしゃげたまま建っています。

海に近いところの住宅。ひしゃげたまま建っています。

解体作業中の住宅。一階部分が津波によって激しく壊されています。

解体作業中の住宅。一階部分が激しく壊されています。

  一方でまだ撤去されずに残っている住宅もあります。5年経ってもまだ作業が続いているところに、原発事故の影響の大きさを感じました。

 

双葉町~大熊町(帰還困難区域)

 双葉町へ入るところに「帰還困難区域」の看板があります。自分の故郷にこんな看板が立ったら…と想像すると、胸が痛みます。

 そのまま6号線を走っていくと、すべての交差点にバリケードが設置されている光景に出くわしました。6号線を逸れて双葉町、大熊町へ入っていくことが出来ないように、カメラと警備員が車輛の出入りを監視しています。

双葉町へ入るところにある看板です。

双葉町へ入るところにある看板です。

車輛の出入りを監視する警備員

車輛の出入りを監視する警備員

 

 途中で福島第一原発の巨大クレーンと煙突を見ることが出来ました。

福島第一原発のクレーン

6号線からは福島第一原発のクレーンが見えました

第一原発の煙突

第一原発の煙突

 

 

富岡町

新しくかけられた橋。奥には福島第二原発が見えます。

新しくかけられた橋。奥には福島第二原発が見えます。

富岡町にたてられた仮の焼却施設

富岡町にたてられた仮の焼却施設

 

 

 富岡町でも瓦礫の撤去が進み、津波被害の大きさを物語ってきた富岡駅もなくなっていました。富岡町にも仮設の焼却施設が建てられ、除染廃棄物の減容処理が行われています。

 

 

 

 一見復興が進んでいるように見える富岡町ですが、まだ放射線量が高く立ち入ることが出来ない場所もあります。

 今回福島を訪問して最も衝撃を受けたのは、夜ノ森周辺に設置されたバリケードでした。道路の片側のみに延々とフェンスが続き、道路を挟んでその向かい側にはフェンスがありません。フェンスで囲われた場所は特に放射線量が高いため、昼間でも立ち入ることが出来ないエリアです。除染や震災の後始末が進む一方、たった数メートルの距離を隔てて5年前のまま街がとり残されている場所があります。

立派な桜並木がある夜ノ森周辺。フェンスの先に入ることはできません。

立派な桜並木がある夜ノ森周辺。フェンスの先に入ることはできません。

道路の左側の住宅地にフェンスはありませんが、右側の住宅にはフェンスがあります。

道路の左側の住宅地にフェンスはありませんが、右側の住宅にはフェンスがあります。

 原発事故によって一つの地域社会がばらばらにされてしまった姿でした。

 原発事故がもたらした様々な問題でコミュニティが分断されてしまうこと。「これが原発事故の引き起こした本当の悲劇」と加藤専務理事補佐はおっしゃっていました。

 

人けのない富岡町の街

人けのない富岡町の街

歩道橋に「富岡は負けん!」の決意が

歩道橋に「富岡は負けん!」の決意が

 

 

県道36号線(小野富岡街道)

 富岡町をあとにし、県道36号線(小野富岡街道)を通って川内村へ行きました。

 この道は、原発事故が起きた当時富岡町の人々が避難するためにたどった道です。普段なら車で30分足らずの道のりですが、当時は大渋滞が発生し、富岡町の人々は8時間かけて川内村へたどり着きました。

 しかし避難先である川内村にも避難指示が出され、さらなる避難を余儀なくされました。

 

川内村

 川内村は避難指示が出された区域の中でもいち早く帰村宣言をし、3年が経ちます。

 しかし、震災前、川内村はインフラの多くを富岡町に頼っていました。そのため川内村のみで帰村宣言がされても、買い物や就業などの生活の不便は改善されず、川内村の方々が帰村をためらう理由の一つになっています。

 原発事故によって引き起こされた問題は、自治体ひとつひとつの力では解決することが出来ないのです。

 

2日目

 福島市北幹線第一仮設住宅

 福島市北幹線第一応急仮設住宅を訪問しました。この仮設住宅には双葉郡浪江町の方々が避難されています。コープふくしまさんのご紹介で、自治会長の菅野栄一さんにお話を伺うことができました。

 この仮設住宅に入居されている浪江町の方々は約140世帯160名。当初は196世帯312名の方が入居されていたそうですが、およそ半分の方が自力で生活を再建し仮設住宅を退去されています。

 現在、この仮設住宅に暮らしていらっしゃる方の65%が高齢者であり、敷地内の除雪や草取りなど、仮設住宅の環境整備に苦労されているそうです。特に、浪江町は気候が穏やかな海沿いの町。福島市の雪や、様々な環境の変化に馴染むのも大変だったそうです。

 また、この仮設住宅には、津波で家を失くされた方と原発事故の影響で帰宅できない方の両方が避難されています。それぞれ被災の状況により国や東京電力から受ける補償が違うことや、もとの住宅が残っているかどうかにより、今後の暮らしの再建方法に差が出ます。そのことによる地域社会の分断という問題もあるそうです。

 浪江町の方々を対象に行われた意向調査では、まだ40%の方々が町へ戻るか戻らないかを決めかねていることが分かりました。町の除染が十分に進んでいないことも帰町を迷うひとつの原因ですが、震災を機にお子さんと別れて暮らし始めたご年配の方々も多く、今後のことをご家族に相談できず、生活の再建にめどが立てられないケースもあるそうです。

 なお、2017年3月で仮設住宅の供与が終了する予定であり、そんな方々を孤立させないよう、行政や地域の協力で導いていってあげなければ、と菅野さんはおっしゃっていました。

インタビュー後も菅野さんにお話を伺う橋場さん

インタビュー後も菅野さんにお話を伺う橋場委員

 

 

 

 

 

 

 

 

橋場委員の所感

 私は昨年3月に行われた福島視察訪問企画にも参加しました。その時は津波で壊れた富岡駅がまだ残っていましたが、今回行ってみると駅は解体され、海から線路に至るまで除染廃棄物が山積みとなり、仮焼却施設が建てられていました。しかし、帰還困難区域では有人のバリケードで封鎖された道路が延々と続き、主を失くした家並みがいまだにひっそりとたたずんでいます。復興が少しずつ進んでいるとはいえ、まだまだ除染作業や被災した家屋の解体も残っている状況でした。

 遠くに住んでいる私たちに出来ることは多くはないかもしれません。しかし、普段の食卓に安全な福島の農産物を取り入れるなど、一人ひとりの小さな支援の積み重ねが福島の復興に繋がるのではないでしょうか。

震災と原発事故は5年前の過去のことではなく、今なお影響が続いています。福島のことを忘れず、支援を続けていきましょう。