富山県生活協同組合

2018ピースアクションinヒロシマ

2018 ピースアクションinヒロシマ
ヒロシマの心を次世代のあなたへ
~知って、感じて、動き出そう~

日本生活協同組合連合会    
広島県生活協同組合連合会 主催

 

2018年8月4日(土)~6日(月)、広島県広島市内で2018ピースアクションinヒロシマが開催されました。
富山県生協からは代表の組合員親子2組が参加し、ピースアクションのプログラムと広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式に参加し、平和について学びました。

開催目的

  • 73年前のきのこ雲の下の出来事、その後の歴史や復興への歩みなど「ヒロシマ」だからこそ感じる被爆の実相の想いを多く知って、感じて、動き出したくなるような取組みを行います。
  • 「戦争も核兵器もない平和な世界」を求める願いを、世代を超えて交流・共有し、全国に広げます。

日程

日程内容
8月4日(土)
  • 組合員から寄せられた平和の折り鶴を「原爆の子の像」へ奉納
  • 原爆ドームや相生橋、平和記念公園内のいしぶみを回る
  • 平和記念資料館を見学
 8月5日(日)
  •  袋町小学校平和資料館見学
  • 分科会「アニメと被爆の証言」
  • 虹のひろば 参加
 8月6日(月)
  •  平和記念式典に参列
  • 分科会「被爆の証言 サダコと折り鶴の話」

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1日目

平和記念公園内にある「原爆の子の像」に平和の折り鶴を奉納しました。

今年は組合員から約37,800羽の折り鶴が集まりました。

「原爆の子の像」の前で

「原爆の子の像」の前で

奉納する千羽鶴は参加者親子がつづりました。

奉納する千羽鶴は参加者親子がつづりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

原爆ドームをはじめとするモニュメント、平和記念資料館の見学

折り鶴奉納後、原爆ドームや、爆撃目標となった相生橋、原爆供養塔などを回って、原爆投下後の惨状や犠牲になった人々に思いを馳せました。

原爆ドームを見上げる参加者

原爆ドームを見上げる参加者

平和記念資料館の映像資料

平和記念資料館の映像資料

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2日目

被爆の証言

矢野美耶古やのみやこさん

矢野 美耶古さん

矢野 美耶古さん

14歳の時に、爆心地から約4km離れた宇品の自宅で被爆された矢野美耶古さんのお話を聞きました。

8月6日、体調を崩して自宅にいた矢野さんは無事でしたが、建物疎開に従事していた同級生たちは現在の平和記念公園の中で全滅しました。

生き残った矢野さんは、遺体を焼く火の番をしたり、亡くなった同級生の遺族から「ずる休みをした非国民が生き残っている」と言われたりと、その後もつらい経験をされました。

矢野さんの詳しいお話はこちら。

お話の最後に「若い人たちにお願いしたいのは、これから起きるかもしれない戦争を食い止めることです」とおっしゃっていました。

 

 

虹のひろば

全国の生協が集まり、平和について意見交流や取組みの発表を行う「虹のひろば」。
今年は68生協約1,200名が参加しました。
前半の「虹のステージ」では、3歳の時に被爆した箕牧みまき智之としゆきさんの被爆の証言や、原爆の被害の中で奇跡的に焼け残った「被爆ピアノ」の演奏、広島市立基町高校の生徒たちが被爆の証言をもとに作製した「原爆の絵」の紹介などが行われました。

被爆ピアノの演奏体験

被爆ピアノの演奏体験

「虹のひろば合唱団」による平和の歌の合唱

「虹のひろば合唱団」による平和の歌の合唱

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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3日目

被爆の証言 サダコと折り鶴の話

川野かわの登美子とみこさん

川野登美子さん

川野登美子さん

 

平和記念公園の中にある「原爆の子の像」。そのモデルになっているのは、原爆投下から10年後に白血病を患い亡くなった佐々木ささき禎子さだこさんです。

禎子さんと小学校2年生から6年生まで同じクラスだった川野さんから、闘病中の禎子さんの様子や、原爆の子の像を建てることになるまでの同級生の皆さんの思いについてお話を聞きました。

川野さんの詳しいお話はこちら。

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 参加者の感想

富山ブロック 常田 亜希

 原爆投下当日、体調を崩して家にいた矢野さんは、爆風で畳ごと吹き飛ばされるも、無事だったそうですが、その日学校へ作業に来ていた生徒や先生方は全員亡くなられたそうです。

 9月1日に学校へ行くと、矢野さんを含めて2年生は3人しかいなくて、その時はじめて、とんでもないことが起ったと思い、自分だけ生き残ったことを恥ずかしいと思い、上級生には自分の妹は亡くなったのに、学校を休んで生き残ったのは、非国民だと言われて、自分も自殺しようと何度も思った程悲しかったそうです。
 たった一発の原子爆弾で、何の罪もない人々の命が一瞬で亡くなり、たまたま生き残った人も、原爆症の被害で苦しめられたり、矢野さんのように、みんなが亡くなったのに自分だけ生きていていいのかと思って、自殺を考えるようなつらい思いをしたりと、誰もがつらくて悲しい思いをするのです。
 自分も一人の母親として、未来ある子供たちに二度とこのような悲しい思いをさせない、平和な世の中がずっと続くことを願います。

常田 真央(11歳)

 ぼくが、平和記念資料館に行って思ったことは、家より小さな原爆が落ちただけで、約9キロメートル離れていたとしても人や町に被害がおよぶということは知らなかったのでこわいなぁと思いました。そしてその他にも写真や実際原爆のえいきょうを受けた物などが展示してありました。写真を見ると原爆のえいきょうで全身やけどをした子供たちや、兵隊さんたちなど多くの人たちが被害を受けていたことが分かりました。また、展示品は原爆のえいきょうで黒くさびた三輪車や、ものすごい熱でとけたガラスやビー玉がありました。
 ぼくは、この平和記念資料館で原爆とはどんなものか。原爆とはどれ程おそろしいものかを知りました。そしてこんなおそろしいものを二度と使わないように多くの人に原爆のおそろしさを伝えて戦争をなくしていきたいです。

西部ブロック 森岡 阿津子

 矢野 美耶古さんの体験を聞かせていただきました。矢野さんは生まれた時から戦争で、今の日本はその頃とよく似ているので、じわじわとまた戦争が起るのではないかと感じ今ならくい止められるのではないかと、語る理由を話されました。家からミシンを工場に持ち込んで秘密の仕事をする「軍事機密」とか、学校で勉強を行わないことを決めた「閣議決定」をわかりやすいように例に挙げられました。
 1945年6月沖縄戦の頃、すでに日本は敗退していたのに国民には知らされていなかったそうです。
 8月5日女学校2年生だった矢野さんは、朝7時から、建物疎開で出た1枚でも貴重な瓦などを集めて背負って運ぶ仕事をしたけれど、食べ物もなく力も出なくて苦労されたそうです。夜中にいつもより多く何度も飛行機が飛んでくるので、防空壕に避難していて、腹痛と下痢に見舞われたそうです。
 8月6日退学になるかもしれないと心配だったが学校は欠席されて助かったそうです。
 しかし、亡くなった同級生の遺族などからまじめな子は死んで怠けた子は生き残ったとなじられ、いつも死にたいと考えていたそうです。死ぬことが名誉とされていた中、非国民だと非難されて、どんなに苦しかったことかと怒りで涙が止まりませんでした。
 爆風が耳や鼻から入り、その圧力で目玉が飛び出してしまった人や、皮膚が焼けただれてぶら下がった腕を痛みから逃れる為に心臓より上にあげて歩いて行いく人達を見たことも、身振り手振りで伝えてくださいました。
 絵本の「ひろしまのピカ」の描写を思い出して、胸がばくばくしました。
 翌日からの仕事は死体を焼く火の番だったそうです。14歳の女の子が…想像したくもありません。この時に死体から発散する放射能で被ばくしてしまった事は何年も後になってから判ったそうです。
 生き残ったことが恥ずかしい。と何度か口にされました。
 戦争の中に生まれて、食べ物も自由もなく逃げ惑う毎日を強いられ、生まれた世代が悪かった。ではすませられないと憤りを覚えます。矢野さんの現実や多くの被爆や戦争体験は、尋常な事ではありませんから。
話は逸れますが、私の生まれた町は3月頃から最後は無条件降伏が決定していた終戦前日の8月14日まで9回空襲を受けたのだそうで、関係する書物や体験談などは多いと思います。その中には、自分たちは原爆を受けた広島の人々より、幸運だと語られる方もいらっしゃいます。放射能の恐ろしさや差別を受ける悲しさをよく知っておられるのだと思います。
 今回、ピースアクションinヒロシマに参加させていただいて、本当に感謝しています。
今を生きる自分たちがどれ程恵まれているのかという事、平和は当たり前ではないという事、平和のありがたさや大切さを認識して守っていかなければいけないという事を、改めて強く強く感じ、心に刻む事が出来ました。
 ありがとうございました。

森岡 晃大(12歳)

 死ぬことが名誉。ふざけるな。原爆を使用されて、アメリカに見せられた差。それから来た言い訳のように聞こえてならない。
 原爆の被害は建物の破壊、火傷だ。
 矢野 美耶古さんは、自宅にいてやけどを負わなかったらしい。しかしその幸運が矢野さんを苦しめた。死にたいと思うほどまで苦しめた。周りから「非国民」といわれ、生きていれば死んだ人を焼かなければいけない。
 戦争のために貧しくなったのに戦争に負けてさらに貧しくなった。そのうちに放射能が体を蝕んでいく。精神的にも、身体的にも傷つけられていった。
 原爆の前の話だが、学校と言いながら実質工場と化していた。何を言いたいかというと工場なら工場とはっきり言った方が潔いということだ。
 そして、なにより原爆投下当日、放射線の存在が知られていなかったことだ。かわいそう。
 これが僕が矢野さんの話を聞いて思った事全てだ。
 矢野さんは戦争は良いことはひとつもないと話された。
 二度と戦争が起ってはいけないと思った。戦争なんて絶対イヤだ。
 人を殺すのも人が殺されるのもイヤだ。