富山県生活協同組合

2016ピースアクションinヒロシマ

2016ピースアクションinヒロシマ
広島の心を次世代のあなたへ ~学び、知り、考える~

 

日本生活協同組合連合会   
広島生活協同組合連合会 主催

 

 2016年8月4日(木)~6日(土)、戦後71年目を迎える広島で「ピースアクションinヒロシマ2016」が開催されました。

 今年度、富山県生協は①被爆の実相や被爆体験を、これからの世代に継承する②「核兵器も戦争もない平和な世界」を求めるヒロシマ(富山)の願いを世代を越えて共有し、広げるための手がかりを探すことを目的に、組合員親子から参加者を募集し、代表として事務局を含む3名を広島へ派遣しました。

も く じ
8月4日(木)8月5日(金)8月6日(土)

 

ピースアクション開催目的

  • ポスト被爆70年の年、風化しつつある71年前のきのこ雲の下での出来事や高齢化が進む被爆者の想いを学ぶ場として取り組みます。
  • 核兵器の存在は人類の危機と考え、核兵器の非人道性、核兵器をめぐる世界の情勢やさまざまな人が取り組んでいる平和の活動について知り、考えや想いを交流します。
  • 4年後に開催予定の次期NPT(核兵器不拡散条約)再検討会議への気運作りに向けて、次世代への継承含めて、多くの人へ伝え広げる活動の場とします。

原爆ドーム

 

 

 

 

 

 

 

△もくじへ戻る

 

日時・会場

  • 2016年8月4日(木)~6日(土)
  • 広島市内
    (合人社ウェンディひと・まちプラザ、平和記念公園、広島県立総合体育館グリーンアリーナ)

 

△もくじへ戻る

 

現地での動き

8月4日(木)

  • 原爆ドーム・爆心地付近を歩く原爆ドーム付近を歩く

 原爆ドーム周辺には、たくさんの見学者とともに、核兵器廃絶を訴える署名を集めている広島の高校生や、71年前の原爆投下についてレクチャーしている地元の方々も大勢いました。中には英語で外国の方に説明している方や外国語の資料を配布している方もいました。

 

 

核兵器についての資料

核兵器についての資料

証言をもとに描かれた絵

証言をもとに描かれた絵など

原爆・ヒロシマについてのHP紹介

原爆・ヒロシマについてのHP紹介

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  • 朗読と被爆の証言(会場:ひと・まちプラザ)

 小学生・高校生・大学生を含む被爆体験記朗読ボランティアの方による原爆詩朗読を聴き、胎内被爆者の石原智子(いしはら ちえこ)さんからお話を聞きました。

 石原さんは、夫を探すため原爆投下の翌々日から広島市内に入った母親のお腹の中で被爆されました。直接原爆の被害を見たわけではないけれど、子供の頃からご両親に聞かされてきたこと、見てきたことをお話下さいました。

 ご両親は原爆の放射能の影響で何度も体調を崩し入院や手術を繰り返されたそうですが、最期まで「原爆を落としたアメリカが悪いのではなく、戦争そのものがいけない。人の命を奪うなら原爆も竹槍も同じ」と石原さんに言い聞かせてきたそうです。

 石原さんは「わたしの中には(原爆のせいで両親がいろいろと苦労していることを)アメリカのせいにしたいという気持ちがあったのだろうけど、父が一度もアメリカを恨んでいるとは言わなかったおかげで、誰かのせいにして憎むのではなく、〝原爆のない平和な世界を〟と訴えることの方が大切だと思える」とおっしゃっていました。

 

 

  •  ピースアクション_碑めぐり平和記念公園内の碑めぐり

 平和記念公園内に建てられた碑とそれぞれにまつわるエピソードを、ボランティアの方の案内で見て回りました。公園内には多くの碑がありますが、どの碑にも平和を願う折り鶴がかけられていました。

 

 

 

韓国人原爆犠牲者慰霊碑 被爆当時、広島市内に住んでいた数万人の朝鮮人のうち、2万人が犠牲になったと言われる。

韓国人原爆犠牲者慰霊碑
被爆当時、広島市内に住んでいた数万人の朝鮮人のうち、2万人が犠牲になったと言われる。

広島平和都市記念碑 家型のはにわを模した屋根の下には原爆死没者名簿が納められた石室がある。屋根の正面からは「平和の灯」と原爆ドームが一直線に見える。

広島平和都市記念碑
家型のはにわを模した屋根の下には原爆死没者名簿が納められた石室がある。屋根の正面からは「平和の灯」と原爆ドームが一直線に見える。

平和の灯 1964年8月1日点火されて以来ずっと燃え続けており、核兵器が地球上から姿を消す日まで灯し続ける平和への願いの象徴となっている。

平和の灯
1964年8月1日に点火されて以来ずっと燃え続けており、核兵器が地球上から姿を消す日まで灯し続ける平和への願いの象徴となっている。

本川の対岸から見る原爆ドーム

本川の対岸から見る原爆ドーム 爆心地のそばにあった原爆ドームが受けた爆風はほぼ真上からだったため、倒壊を免れ、核兵器の惨禍を物語る象徴的な遺産となっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

△もくじへ戻る

 

 

8月5日(金)

  • 袋町小学校平和資料館を見学

 爆心地から460mの位置にある袋町小学校平和資料館を見学しました。この小学校も原爆によって大きな被害を受けましたが、鉄筋コンクリート造りだった西校舎の外郭だけが残りました。

残った校舎は被爆直後から救護所として利用され、煤で黒くなった校舎の壁は被爆者の消息などを知らせる「伝言板」として利用されました。当時記された「伝言」は今も漆喰の壁の下に残っており、一部は取り出されて展示されています。被爆直後の混乱を物語る生々しい「証言」でした。

 原爆による火災で焦げた壁や扉なども保管、展示されています。

 

 

  • アニメと被爆の証言(会場:合人社ウェンディひと・まちプラザ)

 原爆投下前後の広島の人々の暮らしを描いたアニメ「太陽をなくした日」を観賞後、被爆者の矢野美耶子(やの みやこ)さんの証言を聴きました。

 矢野さんは14歳(女学校2年生)の時に、爆心地から約4kmの自宅で被爆しました。

被爆した場所を説明する矢野さん

被爆した場所を説明する矢野さん

女学生だった矢野さんは※建物疎開の作業に動員されていましたが、原爆が投下された日は、体調を崩し作業を休んでいたため無事でした。

 しかし、作業に従事していて亡くなった同級生の母親から「真面目に学校へ行ったうちの娘が死んで、ずる休みをした者が助かるなんて」など、大変つらい言葉を突き付けられたこともあったそうです。「生き残ってしまった後ろめたさのようなものがあった」とおっしゃっていましたが、その辛さは言葉では言い表せないものだったろうと思います。

 また、矢野さんはお話を始める前に「わたしが証言をするのはこれで最後だろうと思っている」とおっしゃっていたことが印象に残りました。

 当時の体験をじかに聴いて知ることが出来る時間は、私たちが思っている以上に少ないのではないかと感じました。

※建物疎開(たてものそかい)……町が爆撃された時に備えて、ある一帯の住宅を取り壊し広い道を作って防火帯を作る作業。

 

 

 

  • 平和記念資料館を見学

 爆心地と破壊された広島の街のジオラマや、原爆で亡くなった人々の遺品、原爆の熱で溶けたり黒焦げになりながらも残った日用品、当時の写真、被爆した人々の身体に現れた原爆症の症状の説明などが展示されています。実際手を触れられる展示品もあり、原爆の威力のすさまじさを触れて学ぶことも出来ました。

 国内外からたくさんの人が資料館を訪れていました。

 5月に広島を訪問したアメリカのオバマ大統領が折った折鶴と芳名録も展示されています。

爆心地と広島市内のジオラマを見る参加者親子

爆心地と広島市内のジオラマを見る参加者親子

原爆の熱で溶けた当時のもの。ガラスや金属だけでなく、石でできたもの、瓦も溶けている。

原爆の熱で溶けた当時のもの。ガラスや金属だけでなく、石でできたもの、瓦も溶けている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  • 虹のステージ・虹のひろば(会場:グリーンアリーナ)

日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の取り組み報告や、広島の中学生・高校生が原爆の記憶を引き継ぐために作成した作品の発表、各生協の平和の取り組みの展示が行われました。また、全国の生協を代表して集まった子供たちが「平和こども会議」で決議した平和のアピール文が読み上げられました。

全国から集まった平和の折鶴は「コープ折鶴リサイクル」の活動によって解体・ノートや絵葉書の材料としてリサイクルされ、平和グッズとして販売されています。

折鶴の解体体験 全国から集まった平和の折鶴は「コープ折鶴リサイクル」の活動によって解体・ノートや絵葉書の材料としてリサイクルされ、平和グッズとして販売されています。

虹のひろばのフィナーレでは、「虹のひろば合唱団」が平和のうたを合唱しました。

虹のひろばのフィナーレでは、「虹のひろば合唱団」が平和のうたを合唱しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

△もくじへ戻る

 

 

 

8月6日(土)

  • 「原爆の子の像」に折鶴を捧げる
原爆の子の像

原爆の子の像

 平和記念公園内にある「原爆の子の像」に、富山県生協の組合員のみなさんから寄せられた折鶴を捧げに行きました。

 「原爆の子の像」の上には折鶴を捧げ持つ少女が立っています。そのモデルとなった佐々木禎子さんは、2歳で被爆し、それから10年後に白血病を発病しました。「鶴を千羽折れば幸せがやってくる」と知り、回復を願って薬の包み紙などで鶴を折りつづけましたが、9カ月の闘病生活の末に亡くなりました。禎子さんの死をきっかけに、原爆で亡くなった子供たちの霊を慰め、平和を築くための像を作ろうという運動が全国へ広がり、この像が建てられました。

 平和祈念式典直後ということもあり、さらに大勢の人が「原爆の子の像」へ折鶴を捧げにきていました。

 

 

今年度は、約6000羽の折鶴が集まり、広島へ届けました。

今年度は、約6000羽の折鶴が集まり、広島へ届けました。

「原爆の子の像」には、ブースから溢れそうなほどの折鶴が捧げられています。

「原爆の子の像」には、ブースから溢れそうなほどの折鶴が捧げられています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  • 劇「しげるくんの真っ黒なおべんとう」、被爆の証言(会場:ひと・まちプラザ)

 「平和のことを分かりやすく伝えたい」という思いから、生協ひろしまの組合員活動をきっかけに生まれた「劇団あじさい」による演劇「しげるくんの真っ黒なお弁当」を観賞しました。

この劇は、当時13歳で被爆し亡くなった折免滋(おりめん しげる)さんのお話がもとになっています。

滋さんは、出征した父や兄に代わって畑を作り、8月6日はその畑で採れた野菜をおかずにしたお弁当を持って建物疎開の作業に出かけて行きました。原爆投下後の8月9日、母親のシゲコさんが見つけたのは、お弁当箱をお腹の下に抱えるような姿で亡くなった滋さんの遺体でした。滋さんが食べることのできなかったお弁当の中身は、真っ黒に焦げていました。(現物が平和記念資料館に展示されています)

平和記念資料館にある折免滋さんの弁当箱

折免滋さんの弁当箱を見る参加者

 

 

 

 

 

 

劇のあと、平野貞男さんから戦時中の体験談と被爆の証言を聴きました。

戦時中は、どの家庭でも出征した父や兄のために、限られた自分たちの食料や日用品から出した物資を詰めた慰問袋を作ったそうです。しかし、それを運ぶ日本の軍艦は台湾やフィリピン沖で撃沈されるのでほとんど戦地に届いていませんでした。学校で行われる運動会が煙幕を張って小銃を撃つ訓練に代わっていったことなどもお話してくださいました。

8月6日の朝、平野さんは岡山方面からB29が飛んでくるのを目撃していました。岡山方面から米軍機が飛んでくるのは初めてのことだったので、おかしいなと思っていたそうです。そして、爆心地から2.2kmの元広島県立師範学校の校庭で被爆しました。

原爆が爆発した時、平野さんは3秒間ほどの強い熱線と夕焼けのようなオレンジ色の光を感じました。そして、ズシンという地震のような揺れがあったそうです。

その時に負った火傷がケロイドになって残り、今でも毎日痛むとおっしゃっていました。

平野さんは日中戦争~太平洋戦争の流れも大まかに説明して下さいました。この戦争中にアジア全体で約310万人が亡くなり、内100万人は民間人だったことや、無謀な作戦に若者たちが駆り出されて戦死したことは、本当に可哀想なことだと言葉を添えておられました。

△もくじへ戻る

 

参加者の感想

 

前田 大翔(小学3年生)

ヒロシマに行ってどんなことがわかりましたか?

 中学生は火が燃え移らないように、家を倒しに行っていたから生き残っていなくて、3年生から6年生は子どもだけで山に行っていたから助かった人が多いけど、小さい子どもたちはお母さんといっしょにいたからあまり助かっていないということが分かった。原子爆弾は、丸いと思っていたけどミサイルみたいだった。原子爆弾1個であんなにたくさんの人たちが皮が焼けて垂れ下がってきて、町は粉々になって、今でも残っているのが原爆ドームぐらいということが分かりました。

いちばん心にのこったことはなんですか?

 原子爆弾1個であんなに町がぼろぼろになって、1か月や1年でだんだん病気が強くなってきて75㎞遠く離れた山でも光るのと音が聞こえてきたことです。日本の建物は、木と紙と土だから油がつまった爆弾で焼けてしまって石以外は、ぜんぶ焼けたのを聞いてすんごく熱いということが、心に残りました。

ピースアクションに参加して、富山のみなさん、お友たちに伝えたいと思ったことはなんですか?

 原爆が落とされたのは長崎と広島の2つです。たくさんの子どもたちが勉強もできずに、竹槍の訓練をしていて、可哀想だなぁと思いました。
その時は食べ物を食べられなくて、麦や、塩でゆでただけの野菜や、茶碗1杯分のごはんを家族で分けたそうです。ぼくのところに原爆が落ちてきたら昔に戻りたいと思います。どうしてかというと、まだ戦争もしていなくて好きなものがお腹いっぱ食べられるからです。国同士仲良くして、けんかをせず平和な毎日が続くといいと思っています。

※この感想文は、原文のまま適宜漢字に変換しました。

 

 

 

前田 麻衣

ヒロシマを訪ねて一番印象に残っていることは何ですか?

 戦後71年が経ち、被災された方々の高齢化が進んでいること、一部分では戦争が観光化、セレモニー化している印象を受けました。ただ語り部の方々は今も当時が傍らにあり、声を詰まらせ語っていただいた点、欧米の観光客の方々が熱心に見学され心を寄せている点がとても記憶に残りました。

ピースアクションに参加して考えたこと、富山県生協の組合員さんたちに伝えたいことは何ですか?

 参加するまで、私は戦争は過去のもので、海外の事故や事件で、「被害者の中に日本人はいませんでした」の報道どおり、どこか当事者意識が薄かったと思います。しかし、戦争に進んだ背景には、このような無関心からくる偏見や差別があったと気付きました。
 デモに参加したり、「ひとつになろう日本」という大きな流れに身を置く前に、一人一人が自分の身の回りを見つめ、平凡であたりまえの毎日が続くことに感謝する(戦争を経てこられた方々はとても上手にされていますが…)ことが大事だと思います。
 また、子供同士のケンカと同じく、戦争はどちらにも非があり決して被害者の面だけではないと感じます。戦後育ちの私達にも正しく歴史を見つめ「知る責任」があると身を正す思いです。まずは、小さくてもいい、自分の周りからいい世界に相手のために、自分のために、子どもたちのために…。

 

 △ページの上部へ戻る